11月14日の記事に書いた「カメラの目、人間の目」について、もう少し考えてみた。
人間がカメラを向けるのは、それ或いはそこに “何か” を感じたときであるはずだ。
そして、できればその “何か” を他の人にも伝えたい・・・共有したい・・・
松原さんの写真講座で課題図書として紹介された
黒岩比佐子「音のない記憶」(文藝春秋/絶版)には、このようにあった。
カメラというのは、何かと交流してみたい、という思いだから・・・(福島義雄氏)
これは、被写体との交流( “何か” を感じる)であり、
写真を見る人々との交流( “何か” を共有する)ということだと思う。
上の写真は、うちの観葉植物を撮ったもの。
手入れが悪いので、株全体としての見てくれは決してよくないのだが、
微妙に触れ合う2枚のはっぱに、何だかくすぐったくなるような色っぽさを感じて
そういう気分で撮ってみた。
その気分をカメラが捉えたのが、この写真だ。
自分では結構気に入ったけれど、わかってもらえるかしら・・・
そう思いながら、タイトルを 「たわむれ」 として fotologue にアップしてみたところ
何人か、お気に入りに入れて下さる方がいた。
他人に気に入られるかどうか、に囚われてはいけない。
・・・がしかし、
1枚の写真を通して、自分の感じたことを見知らぬ誰かと共有できるとしたら、
それはそれで、すばらしいことではないか。
カメラという機械の目を通すことで、
人間としての私の視線を他人と共有することができる・・・
今、この年になって初めて私が写真を撮りはじめた理由は、
ひょっとしたらこのあたりにあるのかもしれない。