2008年 10月 26日
安部公房 『砂の女』 |
そんなわけで(というのは、こんなわけで)、今から約30年前の私は、
ラブレターの代わりに読書ノートをせっせと書く、おそろしく硬派な女子高生であった。
(今からおもえば随分もったいないことをしたような気もするが、後悔先に立たず・・・)
何しろ片付けられない人間なのでその読書ノート全3冊は今も手元に残っていて、
その中には『砂の女』の感想も、当然書かれている。
安部公房を集中的に読み始めた、割と初期のころにトライしたようだ。
読んだ当時あまりピンとこなくて、
安部公房の作品にしては何だかジメジメした感じだなぁ、
という印象を何となく受けたことぐらいしか覚えていなかったのだが、
改めてノートの感想を読み返してみても、
要するによくわからなかったんだな、ということがよくわかる感想が
くすぐったくなるほど青臭い文章で書いてあった。
冴えないけれど、これもまた一つの青春、ではある。
・・・と、いきなり気恥ずかしい思い出話から始めたのは
今回、この本を読み返してみて、高校生の時に感じたこのわからなさの正体が
多少わかったような気がしたからだ。
出会いが「棒」であったために、私にとっての安部公房は
無機的で非情なまでにクールな作家という印象が強かった。
人間がモノに変わるという象徴的で寓話的な手法も、
慣れてしまえばかえってわかりやすい。
ところが、『砂の女』はそうではなかった。
なるほど主人公の男は、理不尽で非常識極まりない状況に陥るけれども
男が棒に変身するほどにあり得ないことではない。
そのギリギリの場所で、本来サラサラと清潔に流動するものであるはずの砂が
ベタベタと男の全身にこびりつき、男を外から内から侵食していく。
その恐怖の中で、砂に埋もれながらむしろ男は剥がされていく。
彼が倦んでいた日常を。
そこから逃避することを密かに夢見ていた自分の無邪気さを。
結局、数え切れないほどの証明書によってしか形作ることのできない自分の輪郭を。
剥がされ尽くしたむき出しの「自分」の表面に降りかかる砂のザラザラした感触・・・
そのリアルな不快さに比べ、あるべき「自分」という存在の、何と曖昧なことか。
男が味わうその焦燥を、読者である私たちも切実に実感させられる。
ジリジリと真上から容赦なく照りつける真夏の太陽の光とともに。
ブンガクだなぁ・・・・・・・
最近どうしても読みやすい本に流れがちなだけに
つくづくそう思って、ちょっと遠い眼になってしまう。
ホント、文章の力だけでこんなに苦しい思いをさせられるなんて
今風の作品では、なかなかないんじゃなかろうか。
いちいち体に堪えるこの濃さ・・・
先入観のせいか、単に読解力がなかっただけなのか、
いや要するに若かったということだと思ったりもするのだが
この濃さに、かつての私はあまり気がつかなかった。
読む側を作品の世界に引きずり込んで、第三者でいることを許さない
殆ど暴力的な、生々しい力。
ブンガク、それも男のブンガクだなぁ・・・・・・・
とまた思う。
思いながらもう一度読み返す。
人間存在の根本を問うクールなテーマを縦糸とするなら、
横糸のようにその随所に織り込まれる
極限状況におかれた男と女のドラマが色と熱とを差す。
安部公房って、こんなに色っぽかったっけ?
と初めて気づかされたこと。
これが今回20数年ぶりにこの作品を再読して得た最大の収穫かもしれない。
それで調子に乗って、これまた20年近く前に観たことのある
勅使河原宏監督による映画『砂の女』を、DVDでもう一度見てみたのだが、
これはこれで凄すぎて、ここでついでのように触れるだけでは勿体ない。
なので、映画についてはまた後日改めて書きたいと思う。
今はただ一言だけ・・・
「未見の方は必見です」
by immigrant-photo
| 2008-10-26 00:14
| 本