2008年 10月 07日
安部公房、現代国語の思い出。 |

近々、『砂の女』という本と映画について書こうと思っているのだが、
その前に、原作者であり映画の脚本も手がけた安部公房をめぐる思い出話を少々・・・
* * *
安部公房の作品を初めて読んだのは、高校2年生の時だった。
現代国語の教科書に「棒」という小説が載っていた。
短編なので気軽な気持ちで、教科書を買ってすぐに読んでみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・???
4回読んでやっと、男が棒になる話らしい、ということはわかったのだが
頭は激しく混乱していた。
だって、男が棒になるんですよ! 棒!!
教科書に載っている話としてはあまりに斬新で、私には付いていけない。
それまで国語が唯一の得意科目だった私にとって、このわからなさは衝撃的だった。
けれど、人間、あまりにわからないとかえって興味を惹かれるものでもあるらしく、
それからしばらく、カフカ『変身』、中島敦『山月記』などの変身ものを読んでみたり、
安部公房の他の作品を読んでみたりした。
『変身』も『山月記』も、人が他のものに変身する物語だが、
虫や虎とはいえ、まだ命やぬくもりのあるものだ。
しかし、安部作品の中では、人は棒になったり、壁になったり、
足元からほどけていってしまったり、する。
怖さでいうとこちらの方がずっと怖くて、残酷で、救いがない気がした。
それでいてやけに、リアル。
その安部作品を習った高2の現代国語の授業内容が、また非常にユニークだった。
担当のO先生は、私が1年生のとき担任していただいた方で、当時まだ20代。
おかっぱ頭にノーメイクという飾り気のなさが、その年頃としてはかえって個性的な
女の先生だった。
この年の現代国語は、私が受けたすべての授業の中で
最もエキサイティングですばらしい授業だったと、今でも思う。
教科書で直接扱った作品は論説文が一つと小説が二つ(「棒」ともう一つは
夏目漱石「こころ」)ぐらいで、先生ご自身が選んでこられた教材などを多く使った
ものすごく幅広い内容だった。
ここで詳しくは書かないけれど「こころ」の授業などは、楽しくて本当に身震いがした。
強いられるのではなく、アタマはこんな風にも使えるのだということを、初めて知った。
そのO先生の「棒」のテストを、忘れることができない。
普通、課題文というのはテスト範囲の教科書から抜書きされるものだが、
問題用紙に長々と載せられているのは、初めて見る文章だった。
教科書に載っていた小説「棒」ではなく、同じ作者による戯曲の「棒」だったのだ。
それも全文。
戸惑いつつ一通り読むだけでかなり時間をとられる。
大まかな内容は、小説の方と変わりない。要するに棒になった男をめぐって、
この世のものならぬ先生と学生たちが討論をしているわけだ。
が、実はその棒というものに対する捉え方が、小説と戯曲とでは微妙に違う。
そこを問う問題だった。
くぅ~~~・・・難しいっ!
けれどこの問題は、教わったことをどれだけ記憶しているかを確かめるものではない。
今ここで自分なりに考えればいいわけで、予め決まった答えは存在しない。
その自由さがたまらなくうれしく、答えを考えるのは楽しかった。
頭を掻き毟りつつもついニヤけてしまうような、不思議な時間・・・
今から30年近く前という時代を考慮に入れてもなお、
“女子高生”のイメージからかなりズレた人間であったことは認めるが、
試験を受けながら興奮したのは、さすがにこの時だけである。
かくして、それまで一応は英文科を目指していたはずの私は、
高校2年生の時、O先生と安部公房との出会いを経て、
あっさり国文科、それも現代文学志望へと転向したのだった・・・
(けど、大学に入ってからまた心変わりして、結局現代文学は専攻しませんでした。
すみません、意志薄弱なもので~~~ f ^ - ^; )
by immigrant-photo
| 2008-10-07 00:32
| wanderings