2008年 07月 21日
言葉が生まれる場所、魂の行方 |

「西の魔女」の周りをまだ、うろうろしている・・・
先日、映画『西の魔女が死んだ』について書いた記事で取り上げた、
おばあちゃんとまいが死について語り合うシーンで
私はなぜ、おばあちゃんの言葉にあそこまで心を動かされたのか・・・
あのシーンの少し前に、まいは以前同じ質問をパパにした時のことを
おばあちゃんに話している。
「パパは、死んだら、もう最後の最後なんだって言った。もう何もわからなくなって
自分というものもなくなるんだって言った。もうなんにもなくなるんだって言った。
でも、わたしが死んでも、やっぱり朝になったら太陽が出て、みんなは普通の生活を
続けるのってきいたら、そうだよって言った」
そう言いながらすでにしゃくりあげていたまいは、その後おばあちゃんに抱かれて
ひとしきり泣く。しばらくして漸く泣きやんだまいに、
おばあちゃんは小声でこう言ったのだった。
「おばあちゃんの信じている死後のことを話しましょうね」
・・・・・・・・・・・・・・・
確か映画には出てこなかったけれど、原作にはこのシーンを補足するような
後日談がでてくる。一週間ぐらい後のことだ。
久しぶりに休みが取れたから、とパパが単身赴任先からおばあちゃんの家を訪ねてくる。
実はまいの今後に関わるような重要な話を、パパはしにきたのだったが。
その後まいはパパと二人で買い物がてらドライブに出かけ、少し思い切って
むかし死について訊いたときのことを覚えているか、と尋ねてみた。
パパは全く記憶にないようだった。
まいは呆れて、それでもパパの言ったことを教えてあげた。
それを聞いたパパの言葉は・・・
「それは、そしたらずいぶん前のことだろうね。そのころはそれが常識だったんだよ。
でも、今は正直に言うと、よく分からないんだ。いろんなことを言う人がいるからね。
最近では、死んだらそれまでっていう考えは、あんまり流行っていないみたいだね」
その夜、パパが寝てからまいにそのことを聞かされたおばあちゃんは
笑い転げながらも、一応たしなめるようにこう言った。
「まいのパパはいつだってそのときの自分に正直なんですよ。まいに対しても、
一人の人間として、対等で誠実でなければならないと思っているんです」
・・・・・・・・・・・・・・・
おばあちゃんの言葉とパパの言葉。
話の内容以上に決定的に違うことがあるように思う。
それは、それらの言葉がどこから発せられているかということではないだろうか。
パパがかつて話したことがそれほどとんでもないことだったとは、私は思わない。
パパにしてみれば、その当時一般的だった説を、まいに正しく教えてやった
ぐらいのつもりだったのだろう。
情報を伝達するためだけの言葉は、語るそばからパパの上を素通りしていき、
だからパパはもう自分の語ったことさえ忘れてしまっている。
そしてそういう一般論がなくなってしまった今は「よく分からない」と正直に答える。
おばあちゃんが「そのときの自分に正直」と評したように、
それはそれで一種の誠実さではあると思う。
対するおばあちゃんはどうだったか・・・
おばあちゃんは自分が「信じている」ことを話す、と言ったのだった。
それが一般論として正しいかどうかではない。、
自分はこう思う、ということをまいに語ってくれたのだった。
おばあちゃんの言葉の背後には、畑の世話をしたり、洗濯をしたり、
三度の食事をしっかりとったり・・・というようなことをごく当たり前に
きちんきちんとこなし続けてきた毎日がある。
そういうささやかな日々の営みの中から、
おばあちゃん自身の体を通して生まれてきた言葉には、おばあちゃんの血が通っている。
ほかの誰でもない、おばあちゃんだけの言葉だ。
だから揺るぎなく、自信に満ちていて、力強い。
その強さは、激しい引力を持ちながら
一方で、そういう自信を持ち得ずにいるいるまいの両親たち
つまり私たちの世代を焦らせもする。
私たちは、自分の体の中から言葉を生むことがとても難しい時代に生きている。
ならば、おばあちゃんのようなライフスタイルを実践すればいいのだろうか?
だが多くの人たちにとって、おそらくそれはあまり現実的ではない。
そうではなくて、私たちは私たちなりに、
今この現状の中に在っても自分の言葉を生み出していくための
新しい方法を必死で考えていくしかないのではなかろうか。
それはもっと下の世代であるまいたちにとっても同様に切実な問題であるはずだ。
世の中は、おばあちゃんたちが育った時とは全く違っている。
昔は想像もできなかったような闇がそこここにパックリと口を開けて不気味に横たわっている。
まいたちはその闇をかかえて、生きていかなくてはならない。
そのことをただかこつのではなく
それはそれとして、その中でもなお自分を見失わずに生き続ける道を
自分で見つけようとすること・・・
「春になったら種から芽が出るように、それが光に向かって伸びていくように」
魂は成長したがっているのだ、とおばあちゃんは言った。
その感覚の健やかさに私は打たれる。
こういうことを当たり前に、確信を持って言ってもらうと、とても安心感を覚える。
本来はそうあるべきなのだ、よくぞ言ってくれたと、深い部分が激しく揺さぶられる。
けれど残念ながら私たちが今生きている現実はもはやそのような健全さのうちにない
というのも事実だ。
いつまで待っても、春はこないかもしれない。
かつて満ちていたはずの光も、ここまでは届かないかもしれない。
それでもやはり魂は成長したがっているのだ、と思う。
私たちは私たちなりのやり方で、その方法を見つけていかなくてはならない。
簡単なことではないかもしれないが
光合成のできないような環境でも、菌類は立派に生き抜いている。
いのちは本来しなやかで、したたかなものだ。
そのことを、忘れずにいたいと思う。
by immigrant-photo
| 2008-07-21 11:52
| thinking