2007年 11月 08日
古井由吉 『水』 |
表題作を含む六篇からなる短編集。
表題作「水」を始めて読んだのは、実は、模擬試験の問題文としてであった。
家族と水辺の宿に泊まっている主人公の男が、夜中にのどの渇きを覚えて目を覚ます。
目は覚めたが、体はなかなか起き上がろうとしない。
布団で腹ばいになったままの男の脳裏に、次々と “水” にまつわる思い出が
浮かんでは消える・・・
問題文として掲載されていたのもその思い出のひとつ、
その日の日中に湖上の遊覧船で起きたできごとの回想シーンであった。
そこで、男の2歳になる息子があわや水面に転落、という事件があったのだ。
(実際には通りがかりの若い男が気づいて抱きとめ、事なきを得たのだが。)
この場面に限らず、男の回想はどれも、色濃く “死” の気配を漂わせる・・・
今回、別の本を探していてたまたまこの本を見つけ出し、
20年ぶりぐらいで読み返してみた。
いま改めて読んでみれば、
透明ではあるがいつのまにかジクジクとこころの襞に沁みこんでくるような陰鬱さと、
体温に似た妙な生温かさとをあわせもつ古井の文体自体が “水” そのものだ。
というと、水の一般的イメージとはあまりにかけ離れていて
奇妙な感じを持たれるかもしれないが、
こういう “水” も確かにある、と思う。
ただ、その感じが一体どこからくるのかが、自分でもなかなかわからなかったのだが、
パラパラとめくっていた文庫本の最後、小川国男による解説の中にそのヒントを見つけた。
〈肉体の記憶の中から、物の意味を探し出そうとする〉
文学者が古井である、という。
水の場合で言えば、私たちの先祖にとっては、
これほど必要でありながら、これほど思うに任せなかった存在もなかっただろう。
日照りが続けばたった一滴の水に焦がれ、
雨が続けばたちまち暴れる川に呑まれる・・・
彼らにとって水は、決して心なぐさみ癒されるだけのものではなかったはずだ。
蛇口からいくらでもきれいな水が出るのが当たり前になった今日、
昔の人たちが持っていた水に対する一種信仰めいた畏れや
タブー視せずにはいられないほどの複雑な想いを実感することは少ない。
しかし、その想いは依然として私たちの肉体に記憶されているのではないか
・・・というのである。
そして、古井の小説の主人公たちは、そこから 〈物〉 を捉え直そうとする。
目の前に存在する 〈物〉 の意味を、自分が生まれる前から肉体に記憶された手触りを頼りに
改めて問い直そうとするのである。
さて・・・
ここからは、多少我田引水気味になるのを恐れずに本を離れて勝手な想いを述べるが、
もしかしたら・・・と私は思ったのだ。
自分が今、カメラを通してひたすら水と格闘していることも
ひょっとすると、同じような問い直しの作業なのかもしれない、と。
瞬間が凍りついたように完璧にクリアな水滴
心を洗われるような清らかな流れ
どこまでも美しく広がりゆく波紋
湖面をわたる漣
岩にぶつかって荒々しく砕け散る白い波頭
・・・などなど
もっと、写真としてすばらしい作品になりそうな美しい “水” を追求することもできたはずだ。
けれど少なくともこれまでのところ、どうやらそういう方向には行っていない。
どちらかというと、段々ドロドロして不透明感が増し
硬質な清らかさとはむしろ正反対の方向に向かっているような気さえする。
それがどういうことなのかを、あまり意識せずにここまできた。
が、今回この本を読んだことで少し手がかりをつかめたような気がする。
そういう意味で、私にとっては大変有意義な読書体験だったと思う。
ただ、この本全体としての感想を求められるとちょっと微妙である。
特に女の描き方には、正直かなり抵抗を感じた。
古井自身が60年安保世代というのもあってか、
登場する女は概して頭がよく、ちょっと生意気な口のきき方をしたりする。
気も強いので、酒の席で男をこてんぱんに言い負かしたりすることもある。
そういう女の “女” な部分の描き方が、
女の私から見るといかにも “男の目から見た女” 的で
その度にやれやれ・・・という気持ちになったので、結構疲れた。
そのあたり、どうしても20年という歳月を感じてしまうのだが、
文章は独特の透明感があって美しく、精緻にして官能的である。
文章そのもので酔わせることのできる作家は、
今日ほとんど皆無であると言ってよい状況なので
この本を手に、多少のレトロ感とともに秋の夜長を過ごすのもよいかもしれない。
by immigrant-photo
| 2007-11-08 18:36
| 本