2021年 02月 02日
いま |
ある本の、前書きを読んでいる。
もう何回も読んでいる。
カレル・チャペック「白い病」(岩波文庫)。
この戯曲の巻末には、資料として
初版本に付された「前書き」と
生前未発表の遺稿「作者による解題」、
更に翻訳者である阿部賢一さんによる
充実した解説が収められている。
その、いわば付録の部分だけを
私はいま繰り返し読んでいる。
本文は、少し特殊な形で一度読んだ。
2020年4月7日に始まった緊急事態宣言下、
ツイッターで流れてきた情報をたまたま見かけて
note〈チェコ語の翻訳〉上に掲載されていた
「白い病」の訳出文を読み始めた。
訳した分を順次あげていく形になっていて、
(上記阿部さんの解説文によれば、
定期的に毎週末更新されていたようだが、
当時私はそのことに気づかなくて、)
時々noteを開いてみては、続きを読むのを
楽しみにしていた。
本作は、独裁者がまさに戦争を仕掛けようとしている
不穏な時代を舞台にし、
50歳前後の人間誰もがかかり、必ず死ぬという
架空の感染症をモチーフにしている。
やはり未知の感染症のせいで強いられた自粛生活中に、
ちびちびと少しずつ、しかしそれだけに
出来たてほやほやの極めてフレッシュな状態で
本作を読むことができたのは
今から思うと、本当に幸せなことだった。
あまりの臨場感に、毎回ドキドキしながら
ゆっくり読み進めていった。
そうやって歩を共にしてきた感のあった
この戯曲のあのような結末を
どのように受け止めればいいのか
正直いって、わからなかった。
大変貴重でおもしろい読書体験だったが、
最後の最後に、何とも言えない
モヤモヤ感が残った。
もう一度最初から読み直してみようか…
そう思っていたら、しばらくして同じnote上に
本作が岩波文庫で出版されることになった
という記事が掲載された。
元々、本は紙で読みたい派である。
願ったり叶ったりの筈なのだが、
店頭に本が並んでも、すぐには買わなかった。
ネット上で追いかけて読んでいた時の
あの臨場感があまりに生々しく残っていて、
本という、きちんと整えられた形で
あらためて目の前に現れられると
そのフォーマルな姿に妙な違和感というか
気遅れのようなものを感じてしまったのだった。
一応一通り読んで、内容は知っているわけだし…
しかしモヤモヤは残ったままだ。
どうも、ずっと、気持ちが悪い。
それでもう一度noteを見てみたのだが、
そこに掲載されていた訳出文は、当然ながら
出版を機に閉じられていた。
が、あらためて出版のお知らせの記事を見ると
文庫版には作者自身による前書きと
解題まで収められているという。
あぁ、なぜこれを見落としていたのだろう、と
すぐに本屋に行き、1冊買い求めた。
それからずっと、上に書いた通り
本文をさておいて付録に入れ込んでいるのは
まずここを自分なりにちゃんと消化してから
もう一度本文と向き合いたいと思うからだ。
チャペックが戯曲「白い病」を発表したのは
1937年。
当時のチェコスロヴァキアの読者に向けて書かれた
「前書き」と「作者による解題」も、
同年に書かれている。
1937年!
第一次世界大戦が終わってから
まだ大して歲月が経ってもいないのに
世界はすでに再びきな臭くなりつつあった。
そんな時代にこんなことを考えて、
作品という形でそれを世に問うた人がいる。
何度読み返しても、そのことに私は毎回驚く。
その度ごとに、新鮮に驚いてしまう。
描かれるのは、ふたつの相反する理念の
ぶつかり合いだ。
そこで争っているのは、白と黒でもなければ、
善と悪でもなく、また正義と不正でもない。
大きな価値、妥協を知らない強硬なものどうしが
ぶつかっている。この衝突の中では、ありと
あらゆる善、正義、ありとあらゆる人間らしい生が
脅かされている。(「前書き」)
真っ向からぶつかり合って互いに譲らないのは、
片や国民から熱狂的に支持されている独裁者、
一方で彼に対峙するのは慎ましい町医者である。
ふつうなら成り立ちえないこの拮抗関係だが、
戦争に向おうとする時代の流れと、
恐ろしい感染症の流行という緊急事態とが、
ふたりを出会わせ、のっぴきならない関係にした。
専制政治の理念と民主主義・人間愛の理念とを
象徴的に背負って激しく対立し闘った両者は、
結局、それぞれに悲劇的な結末を迎える。
最後に残るのは、偉大さや同情とは無縁の
群衆だけである。そして、その群衆は、
対立する両者を容赦なく死ぬまで
踏み潰す。(「前書き」)
希望が持てない悲観的な結末は
読者として残念で、哀しくてならないのだが、
そういう私自身は間違いなく
この「群衆」のうちのひとりであり、
だから彼らの悲劇と無縁ではない筈なのだ。
おそらくそのことが私をモヤモヤさせている。
この物語が向かっていった結末について
チャペック自身は次のように語っている。
避けがたい悲劇的な結末によって解決は
もたらされないのを、筆者は意識している。
だが、今、この時間と場所において、
現実の対立を言葉は解決できておらず、
その解決は歴史に委ねなければならない。
おそらく、頼りにできるのは、戯曲の
最後に登場する誠実で分別のある
二人の若者のような次なる人々だろう。
だが、最終的な解決は、政治史、精神史に
ゆだねられている。そこで、私たちは、
単なる観客であってはならない。小さな民族の
まったき正義、まったき生は、劇的な
世界の対立のどちら側にあるのかを知ろうと
試みる戦士として、関与しなくてはならない
だろう。(「前書き」)
今から80年以上も前に、
これだけ俯瞰的で広い視野を持ち、
歴史的な時間の流れの中で、
今自分の目の前で起きている出来事を
とらえることができていたカレル・チャペック
という人の大きさを前にしては、
ただただひれ伏すことしかできないという
気になってしまうのだが、
戯曲が存在するのは、世界が良いとか悪いとかを
示すためではない。おそらく、戯曲を通して、
私たちが戦慄を感じ、公正さの必要性を感じる
ために戯曲というものが存在するのだろう。
(「作者による解題」)
とチャペックが言うのなら、
最後に残った「群衆」のひとりとして、
私たちはみんな、この戯曲が顕にしている課題を
自分自身のものとして抱えていかなくては
ならないのだろう。
チャペックの他の著作をはじめ、
他に読んでみたい本もでてきたので、
本文は、もう暫くおあずけになりそうだ。
by immigrant-photo
| 2021-02-02 20:52
| 本