2014年 09月 26日
ジュリエット・グレコ 2014 |

今日は Bunkamura オーチャードホールで
87歳にしてなお現役のシャンソン歌手 ジュリエット・グレコ の
コンサートがあった。
私は一昨日、すみだトリフォニーホールでの公演を聴いた。
もう10年ほど前のことになるが、何気なくシャンソンの
コンピレーションアルバムを聴いてみたことがあった。
いろいろな女性歌手による人気曲を集めた1枚、という趣の
まったくの初心者向けCDだったが
「小さな魚小さな鳥」「ジャヴァネーズ」を歌う
ジュリエット・グレコの声が、とてもいいと思った。
少し低めで落ち着いた、独特の深さを感じる声で、
軽く口ずさんでいるようにも聴こえるのに
とてもドラマチックで、まるで物語を聴いているような。
そのCDに入っている歌手の中にはグレコよりずっと
透き通って美しい声の持ち主もいたけれど、
私はグレコの声が一番好きだった。
公演1週間前になってから、たまたま今回の来日を知り
90歳近い彼女の声が、今も変わらずそのままなのかどうか
そのことはあまり考えずにチケットを買ったのは
ただ、その時、その場、その空気の中に一緒にいて
丸ごと彼女の音楽を体験してみたいと思ったからだ。
変な話だが、音楽として整ったかたちのものが聴きたい
というのならCDでいいような気がする。
編集技術が向上している現在、ひょっとしたら生の音より
よさげな感じに仕上げることだってできてしまうかもしれない。
しかしどんなに録音や映像の技術が進んでも、
舞台芸術をそっくりそのまま残すことは不可能だ。
そこには出演者のアーティスト本人だけではなく、
ホールの物理的環境や、在り方まで含めた雰囲気
さらには当日の客が醸し出す空気など等々
目に見えないものが微妙に、しかし確実に影響を与え、
それら全体ひっくるめて初めて、その日の舞台が成立しているわけだから。
音楽にせよダンスにせよ、演劇にせよ、
“その舞台”というものは一回きりで消えてしまい、
厳密な意味ではどうしたって記録不可能というのが
舞台芸術の凄まじさだと思っている。
正直、一昨日のグレコの声はCDで聴いたものとは随分違っていた。
そのことに失望して「さすがに老いた」と切り捨てることは簡単だが、
以前と異なる、ということをそのようにしか捉えられないのは
まず一人の人間に対する態度として、かなしいと思う。
会場には長年のファンと思われる年配の方の姿が多く、
精一杯のおしゃれをした皆さんの醸しだす華やいだ雰囲気が
客席やホールに満ちていた。
いわゆる客層が悪いというのでは、なかったと思う。
けれど「小さな魚小さな鳥」の軽妙なメロディーが流れている
その真っ最中に、前から10番目辺り、
舞台の上のグレコからもよく見えるであろう中央の客席から
一人の男が突然立ち上がり、平然と聴衆の前を横切って
すたすたと出口に向かうという、信じ難いできごとが起こった。
男はそのままドアを開けて、堂々と出て行ってしまった。
曲の途中に。
このとても基本的なルール違反で、会場は一気に歌の世界から
引き戻されてしまった。
なぜ、会場スタッフはそれを許したのか?
余程特別な事情でもあったのだろうかと訝しく思ったのだが
すぐ、どうやらそうではないらしいことがわかってきた。
その後も、曲の途中で出入りする人が後を絶たず、
その度にロビーの灯りが入ってくるので、落ち着かないこと甚だしい。
ドアマンはいないのだろうか?
そのことに段々疲れてきた中盤、
私もCDで聴いて知っていた「ジャヴァネーズ」が始まる。
稀代のモテ男セルジュ・ゲンスブールが、グレコのために書いた曲だから
グレコも万感の思いをこめて歌っているのが伝わってきた。
歳月を経た分、昔よりさらに様々な情感がわいてくるはず。
それを歌うのは、これまでずっと、どんな時にも歌い続けてきた
今のグレコにしかできないことだ。
客席も、待ってましたという感じになったのだが・・・
その空気の中で、私の斜め前方にフラッシュの閃光。
えっ|?
と思う間もなく、今度は別の場所でフラッシュ。
あまりのことに、呆然としてしまった・・・これは立派な犯罪レベルでしょう。
こういうことで乱されるなんて、私の修業が足りないのかもしれないが
頭がくらくらして後半は全然集中できなかった。
それでも、グレコはノンストップで1時間半を歌い切り、
アンコールには誰もが知っている「桜んぼの実るころ」を。
これ以上アンコールに応じてもらうのは、体力的に無理だろうから
これがこの公演の一番最後の曲になるだろう。
熱心なファンはスタンディングオベイションでグレコを讃える。
が、ここに至ってまた、とどめの一発のような光景に出くわしてしまった。
客席からスマホで録画している人が・・・
思わず「ありえないでしょう?!」ということばが口から漏れてしまった。
もはや伝説的存在と言っていいシャンソンの女王の公演で
初歩的なマナー違反が次々と、平然と行われたことがショックだったし
それに対して劇場側が何の対応もしていないように思えるのにも驚いた。
もちろん開演前に注意を促すアナウンスはあったが、
劇場側の責任はそれだけで終わるわけではないと思う。
アーティストがいい気分で舞台に立ち、存分に力を発揮できるように
そしてそれにともなって観客の気持ちも盛り上がり、
会場全体が高揚感とともに終演を迎えることができるように、
場を保っていくこと。
その責任に対する、劇場側もしくは主催側の静かな気合い
(この“静かな”というのが本当に難しく、大概はあからさま過ぎるので
無駄な緊張感で疲れてしまうのだけれど)
のようなものがあまり感じられない公演だったのが、残念でならない。
今日の公演が、全部ひっくるめて満足のいく
いい公演であったことを願う。
by immigrant-photo
| 2014-09-26 23:48
| 音楽