2010年 11月 11日
ねこのことこねこのこと #16 |
朝ごはんを食べた後子猫たちを探しに行った母猫が、昼頃戻ってきた。
が、うちの庭には入ってこないで畑に座ったままだ。
フェンス越しに話しかけてみたら、ふん、といった感じでそっぽを向かれてしまった。
「怒って当たり前だよね・・・ごめんね、本当にごめん!」
その言葉のむなしさは重々承知のうえで、それでも私には謝ることしかできないのだが、
母猫はついと立ち上がったかと思うと、少し離れた物影に移動した。
完全に姿を消すわけではない。
すぐ近くなのに耳しか見えないこの微妙な距離のとり方が、
却って彼女の私に対する怒りの大きさを象徴しているように思えた。
もう、以前のように傍に来てはくれないのだろうか。
出会ってから1年半。
決してこちらから無理に近づこうとしなかったのがかえってよかったのか、
今時珍しいほどワイルドなノラ猫だった彼女も、最近は随分馴れてきていた。
ごはんの前は手元・足元に擦り寄ってくるし
そういう時は撫でさせてもくれる。
日頃鍛えているだけあって、華奢な体の割りにしっかりした広い胸を
手のひらでやわらかく包んでやったりすると、
満更でもなさそうな顔で前足をもみもみと動かしてみたりもする。
こんな風に人間に甘えることを、彼女はこれまで知らずに育った。
けれど、人間の傍で育った子猫たちが平気で人に甘え、かわいがられるのを見て
人間と関わって生きていくなら、甘えた方が得策だと思ったのだろう。
生きるため、ではなく、ラクに生きるためのノウハウ。
それは、万事にわたって極めて優秀な母猫だった彼女が、
唯一、我が子から教えられたことだといえるかもしれない。
子猫たちを真似て初めて擦り寄ってきたときは、勢い余って殆ど頭突きのようだったが
近頃は随分やわらかくしなやかになってきていた。
猫にすればエサのために媚を売っているだけかもしれないが、
だとしても、例えば肩の辺りを揉んでやって目を細めている姿を見れば
こういうことは猫同士じゃできないでしょ、とニンゲンもちょっと誇らしい・・・
そんなささやかな交流が、ようやくできるようになってきていたのに。
その日の夕方。
いつもなら彼女が晩ごはんを食べにくる時間に、少しビクビクしながら玄関ドアを開けた。
と、すかさず「ニャーオ、ニャーオ、ニャオ、ニャオ」とエサを催促する聞きなれた声。
「来てくれたの・・・ありがとう」とこちらはそれだけでうれしくて感無量なのに、
彼女はさらにその私の足元にすりすりと身を寄せてくる。
昨日までと変わらず。
何事もなかったみたいに。
「?・・・!!!」
私の仕打ちを忘れた、獣の愚かさだろうか。
学生時代からの友人にこの話をしたら、そうではないと思う、と
彼女がその時読んでいた本の話をしてくれた。
それは、オオカミと暮らした日々をアメリカの哲学者が綴ったもので、
それによれば、文武両道でイケメン、当然女性からもモテモテという
人間として出来すぎぐらいに恵まれた彼でさえ、
オオカミの気高さの前ではしばしば自分を恥じた、と。
何が気高いといって、彼らには、過去も未来もない。
ただ現在だけを精一杯生きている、その潔さ。
確かにこの人間は昨日自分を狭い箱に閉じ込めて、ひどい目にあわせた。
けど、今は変な箱を持っていないし、エサをくれるみたいだ。
・・・なら、とりあえずいいじゃん、みたいな。
大切なのは、今を生き延びること。
過去に囚われ未来を画策するあまり、今現在を疎かにしてきたサルには
ここまで決然とした生き方はできない。
そんなわけで、母猫は以前と変わらずうちにごはんを食べにくるし、
平気で私に擦り寄ったり、撫でられたりしている。
P.S. 本文中でご紹介した本「哲学者とオオカミ」について、詳しくは こちら をお読み下さい。
2日間の連載。読み応えあり!です。
が、うちの庭には入ってこないで畑に座ったままだ。
フェンス越しに話しかけてみたら、ふん、といった感じでそっぽを向かれてしまった。
「怒って当たり前だよね・・・ごめんね、本当にごめん!」
その言葉のむなしさは重々承知のうえで、それでも私には謝ることしかできないのだが、
母猫はついと立ち上がったかと思うと、少し離れた物影に移動した。
完全に姿を消すわけではない。
すぐ近くなのに耳しか見えないこの微妙な距離のとり方が、
却って彼女の私に対する怒りの大きさを象徴しているように思えた。
もう、以前のように傍に来てはくれないのだろうか。
出会ってから1年半。
決してこちらから無理に近づこうとしなかったのがかえってよかったのか、
今時珍しいほどワイルドなノラ猫だった彼女も、最近は随分馴れてきていた。
ごはんの前は手元・足元に擦り寄ってくるし
そういう時は撫でさせてもくれる。
日頃鍛えているだけあって、華奢な体の割りにしっかりした広い胸を
手のひらでやわらかく包んでやったりすると、
満更でもなさそうな顔で前足をもみもみと動かしてみたりもする。
こんな風に人間に甘えることを、彼女はこれまで知らずに育った。
けれど、人間の傍で育った子猫たちが平気で人に甘え、かわいがられるのを見て
人間と関わって生きていくなら、甘えた方が得策だと思ったのだろう。
生きるため、ではなく、ラクに生きるためのノウハウ。
それは、万事にわたって極めて優秀な母猫だった彼女が、
唯一、我が子から教えられたことだといえるかもしれない。
子猫たちを真似て初めて擦り寄ってきたときは、勢い余って殆ど頭突きのようだったが
近頃は随分やわらかくしなやかになってきていた。
猫にすればエサのために媚を売っているだけかもしれないが、
だとしても、例えば肩の辺りを揉んでやって目を細めている姿を見れば
こういうことは猫同士じゃできないでしょ、とニンゲンもちょっと誇らしい・・・
そんなささやかな交流が、ようやくできるようになってきていたのに。
その日の夕方。
いつもなら彼女が晩ごはんを食べにくる時間に、少しビクビクしながら玄関ドアを開けた。
と、すかさず「ニャーオ、ニャーオ、ニャオ、ニャオ」とエサを催促する聞きなれた声。
「来てくれたの・・・ありがとう」とこちらはそれだけでうれしくて感無量なのに、
彼女はさらにその私の足元にすりすりと身を寄せてくる。
昨日までと変わらず。
何事もなかったみたいに。
「?・・・!!!」
私の仕打ちを忘れた、獣の愚かさだろうか。
学生時代からの友人にこの話をしたら、そうではないと思う、と
彼女がその時読んでいた本の話をしてくれた。
それは、オオカミと暮らした日々をアメリカの哲学者が綴ったもので、
それによれば、文武両道でイケメン、当然女性からもモテモテという
人間として出来すぎぐらいに恵まれた彼でさえ、
オオカミの気高さの前ではしばしば自分を恥じた、と。
何が気高いといって、彼らには、過去も未来もない。
ただ現在だけを精一杯生きている、その潔さ。
確かにこの人間は昨日自分を狭い箱に閉じ込めて、ひどい目にあわせた。
けど、今は変な箱を持っていないし、エサをくれるみたいだ。
・・・なら、とりあえずいいじゃん、みたいな。
大切なのは、今を生き延びること。
過去に囚われ未来を画策するあまり、今現在を疎かにしてきたサルには
ここまで決然とした生き方はできない。
そんなわけで、母猫は以前と変わらずうちにごはんを食べにくるし、
平気で私に擦り寄ったり、撫でられたりしている。
P.S. 本文中でご紹介した本「哲学者とオオカミ」について、詳しくは こちら をお読み下さい。
2日間の連載。読み応えあり!です。
by immigrant-photo
| 2010-11-11 13:55
| thinking