2010年 08月 22日
< ウィリアム エグルストン : パリ―京都 > (2) |
エグルストンの名前は何となく聞いたことがある程度で
「カラー写真を芸術的表現の域まで高めた先駆者」という功績については
恥ずかしながら今回初めて知った。
確かに・・・
芸術写真といえばモノクロでしょ、みたいなところが私にもある。
写真の勉強を始めたのも、いつかかっこいいモノクロを撮れるようになりたい
という想いからだったのだし。
これまで観に行ったことのある写真展も、考えてみれば殆どがモノクロだった。
そんなことを思いながら品川駅構内から出ると
いや~暑いっ!
会場の原美術館までの徒歩15分は決して遠い道のりではないが
陽射しのあまりの強烈さに、一瞬ひるんでしまった。

気を取り直して駅前の自動販売機でペットボトルの水を買い、
陰の部分をたどるように歩いて、何とか無事到着。

原美術館に来たのは初めてだ。
閑静な住宅街に馴染んだ落ち着いた佇まいが美しい。
(元々は原氏の個人住宅で、館内もとても素敵だったけれど残念ながら撮影不可。)
さて、エグルストンである。
年齢を知って改めて驚いた。
私の親と同世代。もう結構いいお年なのである。
そんなおじいちゃんが撮ったとは思えない、斬新な感覚の写真が並んでいた。
一般にカラー写真があまり芸術っぽく見えないのは、
私たちが普段見ている世界もカラーだから、というのも一因ではないかと思う。
色付きの世界は見慣れているので、新鮮味を感じにくいのだ。
スナップ的なものは特にそう。
自分の目で見えている風景がそのまま写真になっているだけでは
せいぜい記録的意味しか持ち得ないだろう。
しかしエグルストンの写真は、
一見日常の何気ない風景をスナップしたかのように見えながら
どこか非日常な感じがして、ドキドキした。
今回の展示は、カルティエ現代美術財団の依頼を受けてパリや京都の
街中で撮影された写真が中心となっているのだが、
いずれも非常に個性の強い街であるにもかかわらず
エグルストンがすくいあげた風景は無国籍的というか、
それぞれの街の類型的なイメージを全く感じさせず、殆ど抽象画のようだ。
風景が風景のまま抽象化している感じ。
エグルストンの写真は全般的に被写界深度が浅め(ピントの合う範囲が狭い)なので、
写真を通して彼の視点の有り様が生々しく伝わってくる。
彼の目が見ているのは、例えば、
カメラを意識してか、さりげなくアンニュイな雰囲気を漂わせる金髪の美女
ではなく、彼女が腰を下ろしている縁石(ピントはここに合っている)
でさえなく、言うなればそこに塗られた黄色、だったりする。
写真の前に立った時バンッとこちらに飛び込んでくるのは、
ピントがあっているものそのものよりも、その色や形、質感の方だ。
画面の隅に配されたバイクも、バイクとしての存在感ではなく
そのピカピカ輝く金属の質感の方が、画面を構成する重要な要素になっていたりする。
だから彼が撮ると、ゴミ袋に捨てられたコカコーラの紙コップでさえ美しい。
実際の被写体は、汚く食べ散らかされた後のゴミ以外の何物でもない筈なのだが、
エグルストンの手にかかるとそれらはゴミであることをやめ、
ビニール袋のピタピタした質感の向こうで鮮やかに輝く、
どこか幻想的でさえある美しい色として、新たに息づき始めるのだ。
写っているものはごく当たり前の、現実にあるものなのに
そこから本来の用途とか価値とか、現実的な意味をはがされ
純粋に色や形、質感といったようなものとして捉えなおされて
絶妙のバランスで配置されている。
そんな印象を受ける写真たちだった。
6月からやっていたようなのに、会期終了間際になるまで行けなかったのが
(いつものことながら)残念でならない。
原美術館も期待していた以上にすてきな場所だったし、
この展示はもう1回ぐらい見ておきたかったなぁ・・・
本日最終日です。
お近くの方はぜひ行ってみてください。
2010年6月5日(土)~8月22日(日)
原美術館

「カラー写真を芸術的表現の域まで高めた先駆者」という功績については
恥ずかしながら今回初めて知った。
確かに・・・
芸術写真といえばモノクロでしょ、みたいなところが私にもある。
写真の勉強を始めたのも、いつかかっこいいモノクロを撮れるようになりたい
という想いからだったのだし。
これまで観に行ったことのある写真展も、考えてみれば殆どがモノクロだった。
そんなことを思いながら品川駅構内から出ると
いや~暑いっ!
会場の原美術館までの徒歩15分は決して遠い道のりではないが
陽射しのあまりの強烈さに、一瞬ひるんでしまった。

気を取り直して駅前の自動販売機でペットボトルの水を買い、
陰の部分をたどるように歩いて、何とか無事到着。

原美術館に来たのは初めてだ。
閑静な住宅街に馴染んだ落ち着いた佇まいが美しい。
(元々は原氏の個人住宅で、館内もとても素敵だったけれど残念ながら撮影不可。)
さて、エグルストンである。
年齢を知って改めて驚いた。
私の親と同世代。もう結構いいお年なのである。
そんなおじいちゃんが撮ったとは思えない、斬新な感覚の写真が並んでいた。
一般にカラー写真があまり芸術っぽく見えないのは、
私たちが普段見ている世界もカラーだから、というのも一因ではないかと思う。
色付きの世界は見慣れているので、新鮮味を感じにくいのだ。
スナップ的なものは特にそう。
自分の目で見えている風景がそのまま写真になっているだけでは
せいぜい記録的意味しか持ち得ないだろう。
しかしエグルストンの写真は、
一見日常の何気ない風景をスナップしたかのように見えながら
どこか非日常な感じがして、ドキドキした。
今回の展示は、カルティエ現代美術財団の依頼を受けてパリや京都の
街中で撮影された写真が中心となっているのだが、
いずれも非常に個性の強い街であるにもかかわらず
エグルストンがすくいあげた風景は無国籍的というか、
それぞれの街の類型的なイメージを全く感じさせず、殆ど抽象画のようだ。
風景が風景のまま抽象化している感じ。
エグルストンの写真は全般的に被写界深度が浅め(ピントの合う範囲が狭い)なので、
写真を通して彼の視点の有り様が生々しく伝わってくる。
彼の目が見ているのは、例えば、
カメラを意識してか、さりげなくアンニュイな雰囲気を漂わせる金髪の美女
ではなく、彼女が腰を下ろしている縁石(ピントはここに合っている)
でさえなく、言うなればそこに塗られた黄色、だったりする。
写真の前に立った時バンッとこちらに飛び込んでくるのは、
ピントがあっているものそのものよりも、その色や形、質感の方だ。
画面の隅に配されたバイクも、バイクとしての存在感ではなく
そのピカピカ輝く金属の質感の方が、画面を構成する重要な要素になっていたりする。
だから彼が撮ると、ゴミ袋に捨てられたコカコーラの紙コップでさえ美しい。
実際の被写体は、汚く食べ散らかされた後のゴミ以外の何物でもない筈なのだが、
エグルストンの手にかかるとそれらはゴミであることをやめ、
ビニール袋のピタピタした質感の向こうで鮮やかに輝く、
どこか幻想的でさえある美しい色として、新たに息づき始めるのだ。
写っているものはごく当たり前の、現実にあるものなのに
そこから本来の用途とか価値とか、現実的な意味をはがされ
純粋に色や形、質感といったようなものとして捉えなおされて
絶妙のバランスで配置されている。
そんな印象を受ける写真たちだった。
6月からやっていたようなのに、会期終了間際になるまで行けなかったのが
(いつものことながら)残念でならない。
原美術館も期待していた以上にすてきな場所だったし、
この展示はもう1回ぐらい見ておきたかったなぁ・・・
本日最終日です。
お近くの方はぜひ行ってみてください。
2010年6月5日(土)~8月22日(日)
原美術館

by immigrant-photo
| 2010-08-22 09:09
| 美術展