2010年 01月 24日
< 内藤 礼 > (1) |
2009年11月14日(土)~2010年1月24日(日)
神奈川県立近代美術館・鎌倉館

それから約2時間。
さして広くはない会場内をぐるぐる歩き回ったり、しばらく立ち止まったり、
時にしゃがんでみたりしながら過ごした。
特に長い時間見ていたのは、《地上はどんなところだったか》と《精霊》だ。
《地上はどんなところだったか》は、2階の左手にある展示室を使った
インスタレーションで、足を踏み入れた途端、その暗さに先ず驚く。
思わず足元に凝らした視線をふと上げると、その闇の中に
黄色い光の輪が、いくつも浮かび上がっている。
近寄ってみれば、それらの光の輪の正体は、
展示用のガラスケース内に、花のような形に置かれた
コードつき電球によるものだとわかるのだが、
その電球自体は何の変哲もないもので、
実験道具のようにさえ見える、およそ情緒とは縁遠いモノだ。
電球だけではない。
その下に丁寧に敷かれてある布も、レトロな味わいのある色柄とはいえ
おそらく広く出回った既製品なのだろうし、
吊るされてふわふわと宙を漂っている風船も、随所に置かれたビー玉も、
モノとしては決して特別なものではない。
その最たるものは、水の入ったガラス瓶だろう。
ぱっと見には、ジャムの空き瓶に水が入れてあるようにしか見えない。
しかしそのただの瓶が、密やかにして強力な磁場を生み
内藤礼の「作品」、としか言いようのない空間が立ち現れる。
そこはもはや美術館の展示室ではなく、
それどころかこの世のどこかでさえないようでありながら、
ひどく懐かしく、近く感じられる。
普段は油絵がかけられたり、陶器が陳列されたりしているのであろう
美術館のごくふつうのガラスケースが
内藤さんによってつつましく設置された仕掛けの作用で
全く別の “世界” へと変貌を遂げているのを目の当たりにして
インスタレーションとはこういう作品をいうのかと
初めてわかった気がした。
一部のガラスケースには、見学者が入れるようになっていて
ガラス1枚を隔てて、見る者は見られる者になり
見られる者がまた見る者となる。
こちら側とあちら側とは、このように繋がっている・・・
そして、私が最も好きだった場所。
L字型のケースの角。
そこに立ってLの縦棒の方向に真っ直ぐガラスケースを覗くと、
光の輪がずっと奥まで果てしなく続いて見える。
そしてその輪の間を、黒い人影がゆるゆると行き来する。
その人影は、展示室内にいる方々そのものであったり、
ガラスに映ったその影であったり。
実像と虚像とが入り混じって、無限に続く仄暗い光の海をひっそりと行き交い、
ここでも彼岸と此岸、自己と他者とはこんなにも近い。
影は増えたり減ったり、近づいたり遠ざかったりして
常に変化しつつ、それゆえに永遠というものを強く感じさせる。
ガラスによる反射という、ひどく物理的な現象が生んだとは思えぬ
幻想的で美しい光景をうっとりと眺めながら
私は、目の前のこの光景を何とか形にして残したい、
今ここでの私の体験を他の人たちにも伝えたい、と思った。
つまり
あぁ、写真を撮らせてもらえたら・・・
失礼を承知で本気でそう思い、思いが募って悶々としてきたので
一旦、外に出る。

神奈川県立近代美術館・鎌倉館

それから約2時間。
さして広くはない会場内をぐるぐる歩き回ったり、しばらく立ち止まったり、
時にしゃがんでみたりしながら過ごした。
特に長い時間見ていたのは、《地上はどんなところだったか》と《精霊》だ。
《地上はどんなところだったか》は、2階の左手にある展示室を使った
インスタレーションで、足を踏み入れた途端、その暗さに先ず驚く。
思わず足元に凝らした視線をふと上げると、その闇の中に
黄色い光の輪が、いくつも浮かび上がっている。
近寄ってみれば、それらの光の輪の正体は、
展示用のガラスケース内に、花のような形に置かれた
コードつき電球によるものだとわかるのだが、
その電球自体は何の変哲もないもので、
実験道具のようにさえ見える、およそ情緒とは縁遠いモノだ。
電球だけではない。
その下に丁寧に敷かれてある布も、レトロな味わいのある色柄とはいえ
おそらく広く出回った既製品なのだろうし、
吊るされてふわふわと宙を漂っている風船も、随所に置かれたビー玉も、
モノとしては決して特別なものではない。
その最たるものは、水の入ったガラス瓶だろう。
ぱっと見には、ジャムの空き瓶に水が入れてあるようにしか見えない。
しかしそのただの瓶が、密やかにして強力な磁場を生み
内藤礼の「作品」、としか言いようのない空間が立ち現れる。
そこはもはや美術館の展示室ではなく、
それどころかこの世のどこかでさえないようでありながら、
ひどく懐かしく、近く感じられる。
普段は油絵がかけられたり、陶器が陳列されたりしているのであろう
美術館のごくふつうのガラスケースが
内藤さんによってつつましく設置された仕掛けの作用で
全く別の “世界” へと変貌を遂げているのを目の当たりにして
インスタレーションとはこういう作品をいうのかと
初めてわかった気がした。
一部のガラスケースには、見学者が入れるようになっていて
ガラス1枚を隔てて、見る者は見られる者になり
見られる者がまた見る者となる。
こちら側とあちら側とは、このように繋がっている・・・
そして、私が最も好きだった場所。
L字型のケースの角。
そこに立ってLの縦棒の方向に真っ直ぐガラスケースを覗くと、
光の輪がずっと奥まで果てしなく続いて見える。
そしてその輪の間を、黒い人影がゆるゆると行き来する。
その人影は、展示室内にいる方々そのものであったり、
ガラスに映ったその影であったり。
実像と虚像とが入り混じって、無限に続く仄暗い光の海をひっそりと行き交い、
ここでも彼岸と此岸、自己と他者とはこんなにも近い。
影は増えたり減ったり、近づいたり遠ざかったりして
常に変化しつつ、それゆえに永遠というものを強く感じさせる。
ガラスによる反射という、ひどく物理的な現象が生んだとは思えぬ
幻想的で美しい光景をうっとりと眺めながら
私は、目の前のこの光景を何とか形にして残したい、
今ここでの私の体験を他の人たちにも伝えたい、と思った。
つまり
あぁ、写真を撮らせてもらえたら・・・
失礼を承知で本気でそう思い、思いが募って悶々としてきたので
一旦、外に出る。

by immigrant-photo
| 2010-01-24 07:06
| 美術展