2008年 06月 27日
撮ろうとしたものと、写っていたもの。そして映し出されたもの・・・ |
・・・で、今日はその “心配事” について書こうかと一旦は思ったのだけれど、
自分の中で一昨日の写真が引っかかってしまってどうにも納まりが悪いので
あの写真について、もう少し考えてみることにした。
* * *
クモが獲物を捕らえるのは生きるために必要なことなので、
それを責める人はいないだろうが、
その瞬間をカメラに納めるという人間の行為は、考えようによってはとても悪趣味だ。
しかも一昨日の記事はイマイチ文章の練り方が足りなかったようで、
今読み返すと、少しふざけた印象を与えてしまったかもしれない、と思う。
しかし私は、もちろんおもしろ半分にあんな写真を撮ったわけではない。
むしろとても厳粛な気持ちで、シャッターをきった。
ごくありふれた朝、小さな庭のそのまた片隅で
人知れずしかし極めて日常的に繰り広げられているであろうこの種の死闘。
狙われる方が必死で逃れようとするのは当然だが、狙う方だって必死だ。
食えなければ自分が命を落とすことになるのだから、
命がけであるという点では、捕食者も獲物も対等である。
この日この時、獲物を仕留めたばかりのクモの全身から
生きるということの凄まじさが溢れ出ていた。
それは残酷な殺しの場面ではなく、容赦なく厳しい生の場面であった。
余分なものの一切ないそのギリギリさが、とても気高く美しいように思えて
私は写真を撮った。
・・・・・・・・・・はずだった。
ところが実際に撮れた写真は、何だかちょっと違っていた。
一昨日も書いたように、そこに写っていたのは厳しい生の現実というよりは
甘美な妖しさが漂うちょっと幻想的な世界。
それが、花の色のせいなのかボケ具合によるものなのか、
或いはもっと他の理由によるものなのかはよくわからない。
いずれにせよ、当初私が意図した通りには写っていないという意味では、
この写真は失敗写真というべきだ。
けれども・・・
所詮機械であるカメラは、実際に目の前に存在するものしか写すことができないわけで、
ということは逆に、見た目にはとてもショッキングなこの場面において
たった一瞬ではあっても、そういう妙な幸福感に満たされ瞬間が
確かにあった、ということになるのではないか?と考えた。
今まさに食われようとしているものの、幸福感???
本当にそんなものがあるのだろうか。
一昨日はそのことについての考察が足りないままに記事を書いてしまった気がするので、
改めてもう少しちゃんと考えてみることにした。
クモに食われることで、コガネムシは死ぬ。
けれども、コガネムシがいのちを落とすことで、クモのいのちは長らえる。
コガネムシとしての死は、クモとしての生の始まり・・・
コガネムシのいのちは、クモの中で生き続ける。
コガネムシが死んでも、いのちは続く。
滅ぶものと、続くものと・・・
いのちのレベルで見ると、ちょっと形が変わるだけなのかもしれない。
確かにコガネムシとしては、死ぬ。
けれど、コガネムシのいのちはクモのいのちと出会い、形を変えて生き続ける。
それは、一種の生まれ直しのようなもので、
だからひょっとすると、いのちにとってはよろこばしいことなのかもしれない。
・・・とまぁ、こんな愚にもつかないことを昨日は一日考えていた。
と告白した時点で、あのたった1枚の写真が元で、最終的には、
家事もしないでこういうことをうだうだと考え続けるダメダメ主婦の一日や
理屈っぽくてちょっと言い訳がましいかもしれないところなど、
その他諸々まで映し出されてしまったわけで、
それを考えると、本当にささやかな場とはいえ、こうして何かを表現したり発表したりする
というのは、なかなかおそろしいことだ。
一昨日の写真のようなキワモノは、人によってはとても不快であるかもしれない。
上で試みたように、私はその写真を撮った自分なりの意味を説明することはできるけれど、
それが他の方にも受け入れてもらえるかどうかはまた別問題だ、ということは承知している。
このブログを始めて、もうすぐ8ヶ月。
毎日続けていると、格好をつけ続けるわけにもいかない。
だから、これから先も一見グロテスクでキツい写真をアップすることがあるかもしれないし、
そのことで人にいやな思いをさせてしまうこともあるかもしれない。
でも、他人からの批判は批判として、そういうものにカメラを向けてしまう自分も
また紛れもない私であるなら、そのことを丸ごと引き受けていくしかないのかなぁ、
とも思うのである。
by immigrant-photo
| 2008-06-27 00:33
| thinking