2012年 08月 26日
“むす” |
息子と娘。
漢字で書くと字数も違うし、
あまり意識したことがなかったのですが
むすこ
むすめ
…だから“むす”の部分は共通なんだな、と
先日突然気が付き、
…ならば“むす”って何?と気になって、
古語辞典で調べてみました。
むす【生す・産す】
①はえる。生じる。
②ふえる。
①は、かの君が代の「苔のむすまで」のあの“むす”ですね。
②は「増す」に通じるのでしょう。
いずれにせよ自動詞であることに一種の感慨を覚え
今度はパソコンで検索してみると、Wikipedia「むすひ」の項に
「ムス」は「ウムス(産むす)」の「ウ」が取れたものとされ、
自然に発生するといった意味がある。
との記載を発見。
やっぱりニワトリじゃなくてタマゴ、
つまり新しく生まれでようとする命の側が主体なんだなと
ここでまた暫し沈潜。
そういえば吉野弘「I was born」という詩があったなと思い出す。
「I was born」という受け身のタイトルだけれど、
この詩に描かれているのは、生まれでようとするいのちそのものの
生々しく途方もない能動のエネルギー。
それは時に、親のいのちを代償にすることさえ厭わぬ非情さを持つけれど
生まれる本人にさえ、そのことをどうすることもできない。
だから個々人の意識の面から見ると、やっぱり“I was born”なんだけど
絶えず更新し続け、もの狂おしく殖え続けようとするのが
いのちの本質であると考えれば、
それはやはり自ら「むす」ものなのだという気もします。
親の意図も、生まれる本人の意志さえも超えて。
預かり受けたそのいのちを、息子と娘がそれぞれどのように育てていくのか・・・
その方向が、少しずつですが見えてきたように感じられたこの夏休みも
残すところあと数日となりました。
とりあえず、休みボケ修正が私の急務です。
漢字で書くと字数も違うし、
あまり意識したことがなかったのですが
むすこ
むすめ
…だから“むす”の部分は共通なんだな、と
先日突然気が付き、
…ならば“むす”って何?と気になって、
古語辞典で調べてみました。
むす【生す・産す】
①はえる。生じる。
②ふえる。
①は、かの君が代の「苔のむすまで」のあの“むす”ですね。
②は「増す」に通じるのでしょう。
いずれにせよ自動詞であることに一種の感慨を覚え
今度はパソコンで検索してみると、Wikipedia「むすひ」の項に
「ムス」は「ウムス(産むす)」の「ウ」が取れたものとされ、
自然に発生するといった意味がある。
との記載を発見。
やっぱりニワトリじゃなくてタマゴ、
つまり新しく生まれでようとする命の側が主体なんだなと
ここでまた暫し沈潜。
そういえば吉野弘「I was born」という詩があったなと思い出す。
I was born
確か 英語を習い始めて間もない頃だ。
或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青
い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやっ
てくる。物憂げに ゆっくりと。
女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女
の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟
なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世
に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
女はゆき過ぎた。
少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれ
る>ということが まさしく<受身>である訳を ふと
諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
----やっぱり I was born なんだね----
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返し
た。
---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は
生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね----
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。
僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。そ
れを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとっ
てこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだか
ら。
父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
----蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬん
だそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくる
のかと そんな事がひどく気になった頃があってね----
僕は父を見た。父は続けた。
----友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だと
いって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く
退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入
っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。と
ころが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっ
そりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目ま
ぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとま
で こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの
粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>という
と 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことが
あってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお
前を生み落としてすぐに死なれたのは----。
父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひ
とつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものが
あった。
----ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいで
いた白い僕の肉体----
(作者註:「淋しい 光りの粒々だったね」は
詩集「幻・方法」に再録のとき、「つめたい光の
粒々だったね」に改めました)
吉野 弘
「現代詩文庫」思潮社
「I was born」という受け身のタイトルだけれど、
この詩に描かれているのは、生まれでようとするいのちそのものの
生々しく途方もない能動のエネルギー。
それは時に、親のいのちを代償にすることさえ厭わぬ非情さを持つけれど
生まれる本人にさえ、そのことをどうすることもできない。
だから個々人の意識の面から見ると、やっぱり“I was born”なんだけど
絶えず更新し続け、もの狂おしく殖え続けようとするのが
いのちの本質であると考えれば、
それはやはり自ら「むす」ものなのだという気もします。
親の意図も、生まれる本人の意志さえも超えて。
預かり受けたそのいのちを、息子と娘がそれぞれどのように育てていくのか・・・
その方向が、少しずつですが見えてきたように感じられたこの夏休みも
残すところあと数日となりました。
とりあえず、休みボケ修正が私の急務です。
by immigrant-photo
| 2012-08-26 20:34
| thinking